2012年08月13日

静岡県藤枝市 大霊寺副住職 近藤章正 師「こころの癒し」


 昨今、通学児童や一般通行者に対する悲惨な交通死亡事故が後を絶えません。私の母親も、交通事故で、この世を去りました。一瞬にして無常の風に散ったのです。無常とは、いつまでも同じ状態を留めないことです。この世の中には、無常の風に散った命に悲しむ人々は限りなくいます。死を自分のことのように考える、それは、不慮の死に直面し、体験した者にしか、その苦しみはわからないのです。大切な方を失い、悲しみにくれる日々を経験した時、人はどのようにして生きていけばいいのでしょうか。
先日、テレビを見ていたところ、みのもんたさんが、奥さまのご葬儀の中で、「お別れしたくありません、ずっと一緒にいたいです」と告げられていました。同感でした。
お釈迦様は、愛する人と別れる苦しみを「愛別離苦」と説かれました。その苦しみを癒すためにお釈迦様は、『仏遺教経』の中で、「世は皆無常なり。会うものは必ず離るることあり。憂脳を懐くことなかれ、世相是のごとし。」と説かれたのです。世の中は無常である、出会ったものとはいつか別れなければならない運命、だから憂い悲しみ、悩んでばかりいてはいけない、世の中とはこのようなものだ、と説かれています。無常の風は、いずれ私たちにも必ず、平等に吹いてきます。それがいつ、どこで吹くか、誰にもわかりません。
「亡き故人のためにできることは何か。」それは、亡き故人が喜ぶこと、善き行いをすればいいのです。たとえば、困っている人を助ける、お互いにどんな気持ちになることか。心が癒されるはずです。それが純粋無垢な幼き子どもの行いなら尚更です。おもわず微笑んでしまうでしょう。この善き行いを曹洞宗大本山永平寺をお開きになられた道元禅師さまは、御自身がお書きになられた書物『正法眼蔵』の中で「利行」と申されました。自分以外の生きとし生けるもののために見返りを求めない善き行いを積み重ねていくことです。その功徳を亡き故人にまごころをこめてお供えする。年回法要も、「善き行い」であり、「利行」そのものなのです。
今ここに我が命があるからこそ、生きてゆける。命の尊さ、有り難さを今一度皆様にも噛みしめていただきたいのです。目が覚めた時、布団に入る時、いつでも構いません。ご仏壇に、遺影に、しっかりと手を合わせて、ほんの少しだけ眼を閉じてみてください。「いつまでも忘れない」、「利行」のこころが亡き故人のこころを癒すのです。   
 「南無釈迦牟尼仏」
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 近藤章正 師

2012年08月06日

静岡県藤枝市 清林寺副住職 武藤啓央 師「奇跡の私にありがとう」


 先日、何気なくインターネットのあるホームページを検索していましたら、某有名大学名誉教授という方が人間一人がこの世に生まれる確率について次のような引用をされていました。
「一億円の宝くじが百万回連続で当たる確率で人間の細胞一個が生まれます。人間一人当たりの細胞が約六十兆個ですので、人間一人が生まれる確率は一億円の宝くじが百万回連続で当たる確率×六十兆ということになります。」
このように某名誉教授は言われますが、はたして全くピンときません。想像すらできません。実は自分も何回か淡い期待を胸に宝くじを買ったことがありますが、恐らく結果は皆さんと同じだったと思います。とにかくここで私が言いたいのはこの引用をみるだけでも、自分というちっぽけな人間が途方もなく桁違いな、そして想像を絶する確率で、この世に人としての生を受けたということです。ですから皆さん、もはやハズレくじの前で肩を落とす必要などありません。貴方が今呼吸をしているということは、実は宝くじ一億円があたる、なんてことよりもずっとずっとありがたくそして偉大なことなのです。
生誕間もないお釈迦さまが発せられた「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは天にも地にも私という存在は唯一つしかない。であるから尊いのだ、自他共に敬い大切にしなさいということですが、さらにこの言葉の中にはもう一歩踏み込んだ尊い意味があると思います。それは宇宙万物の中に人として生かされている大きな目的、人として存在しているからこそ与えられた唯ひとつの使命、それは何かというと「感謝のつとめ」言い換えれば「ありがとうのつとめ」でしょう。
この広い宇宙の中で、そして地球上で、命あるもの全てが、それぞれにその寿命と存在意義をあたえられ、ひたすらその使命を果たすために生きているのです。四苦八苦の苦しみのこの世の中ですが、せっかく人として生を受けたのであれば、常に「ありがとう」の気持ちでお互い支え合いながら精一杯、生きて行きましょう。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 武藤啓央 師

2012年07月30日

静岡県静岡市 東光寺住職 石田泰光 老師 「自分から始める挨拶」


 私は、昨年から縁あって地域の子どもたちが通う小学校の登校時間に合わせて挨拶運動を行っています。
 始めたきっかけは、子どもたちが登校する時間に保護者の皆さんや地域のボランティアの方たちが行ってくれている旗振り活動の時の子どもたちの挨拶に物足りなさを感じたからです。
 これからの未来を受け継ぐ子どもたちには、感謝の気持ちを態度で表せる人になってほしい、そしてより良い人と人の関わりの中で頂いた命を幸せに生きてほしいと願っております。
 「挨拶」も禅語の一つです。挨は「押し開く」、拶は「迫る」という意味があり、禅問答の場での心と心のぶつかり合いを意味する言葉です。修行の程度を推察するために師が門下の僧と問答をして相手の悟りの程度を知ることも「挨拶」といいました。
 日常生活の中でも、人と人の出会い、ふれあいの初めは「挨拶」から始まります。その出会いを大切にしてほしいのです。
 私は、挨拶運動を行うとき、自分から笑顔の挨拶を心がけて行ってきました。初めは、「この、人誰だろう?」と不審な表情を浮かべていた子どもたちも、今では自分から進んで挨拶をしてくれるようになりました。また、「おはようございます」という挨拶だけで終わらず、学校の話などをしてくれる子も増えてきました。子どもたちに願った挨拶によって、私自身も喜びを得ています。
 挨拶をしない子どもと出会ったら、まず大人から挨拶をして、その子の心の中に入っていくことが必要だと思います。そして、挨拶ができた子には、できたことに対して認める言葉を、できなかった子には励ます言葉を返してあげたいものです。
 大人が変われば子どもも変わる。自分自身がより良く幸せに生きるためにも、まず自分から挨拶を行ってみましょう。そこから、人と人の心のふれあいは始まるのだと思います
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 石田泰光 老師

2011年11月14日

三重県南牟婁郡御浜町 林松寺住職 服部真覚 老師 「仏の導きとは」


 苦しい、どうして苦しいのだろうか…。それを克服した安らぎの境地があるに違いない、そこへ至る道があるはずだ。ここに、釈尊、ゴータマ・ブッダが、道を求めた理由があったといえます。そして、実際にやすらぎの境地を体得し、苦しみに溺れる多くの人々に対し、そこへ至る道を示して導こうとしました。
 しかし、それは容易なことではありませんでした。そこで工夫します。導く際に、釈尊が重視した態度に「対機説法」があります。相手の素質や能力をよくよく知った上で、一番善い方法で教えを説くことです。修行が進んでかなり深いレベルまで達している人には、教えの核心を説いたでしょうし、初心者で予備知識のない人には、時間をかけてたとえ話や物語などを用いながら導いていきました。
 こうした「導き方」の特徴は、病気を治す時に用いる「薬」に喩えられます。どんな種類の薬でも、本来の目的は、病気を無くして健康な状態へ向かうようにする点にあります。ただ、薬はいろいろな種類があります。釈尊の教えにも似たところがあり、目指すところは苦しみの克服であって、方向性は同じだけれども、そのためには様々な種類の教えや説き方がある。
 経典には、次のような弟子の言葉が残されています。彼は、釈尊に励まされ導かれながら道を歩んできたことを思い、次のように語っています。「煩悩に流され運ばれている私に、奥深い教えよりなる、見事につくられた丈夫な梯子を授け、私に<恐れるな>といわれた」
 釈尊の教えは導きです。本当のやすらぎを得るための、激しい流れを渡るための丈夫な梯子を用意して、「さあ、渡りなさい」「何も恐れることはない」と、励ましのことばを送っているのです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 服部真覚 老師

2011年09月26日

愛知県名古屋市 東昌寺住職 芳賀成明 老師 「五観の偈」 その一


 こんにちは。突然ですが皆さん「おにぎり」はお好きですか?
 私時々食べますが、ホカホカご飯のおにぎりは美味しいですよね。
 そこに好きな具が入ってパリッとした海苔が巻かれていたらもう、言うことありません。 それに、手に持って食べることで、食べ物とのつながりも、よりはっきりと見えてきます。
 昔からお米がご飯として私たちの口に入るまで、米という文字の形から八十八の手間と苦労が掛っていると教えられてきました。それだけ多くの縁と恩恵があって食べ物が頂けるわけです。
 そしてもう一つは忘れていけないのが、肉や野菜はもちろん、料理で使う水や塩に至るまで、大自然から生まれたものには全て命があるということです。
 その命を頂くということで、私という命が支えられているのは、忘れてはならない事実です。
曹洞宗の食事作法に「五観の偈」という、五つの唱えごとがあります。
その第一が、「一つには功の多少を計り、彼の来処を量る」というものです。「功の多少を計る」とは、私を支える数多くの縁と恩恵を知ること。「彼の来処を量る」とは、私を支える糧は、他の生命に由来している事実に心を向けること。
食事は、私を支える縁に気づき、生命を戴くことに思いを巡らせることから始まります。食べ方は生き方につながります。そのことを覚るのが真の智慧です。
五観の偈は更に「二つには、三つには」と深くそこを見つめていきます。
次の機会は、二つ目を学んでみましょうか。
ところで、おにぎりを「おむすび」とも呼びますよね?これも生命と生命が縁で結ばれ支えられていることを忘れないために、昔の人が呼び始めたのかもしれませんね。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 芳賀成明 老師