2012年11月04日

愛知県額田郡幸田 観音寺住職 鶴田悟裕老師 自分に打ち勝つ

皆さんにも少なからず、心にずっと残っている言葉や名言などが一つや二つあるのではないでしょうか。辛いとき、上手くいかないとき、思い悩んだときにはそういった言葉を思い出していることと思います。私も中学生時代に当時の校長先生から頂いた言葉を今でも思い出し、自分を律することに努めています。そのお言葉とは、「自分に打ち勝つことが最大の勝利である」という言葉です。当時の校長先生が月曜朝礼の際に全校生徒に向けてお話して下さったお言葉です。
学校、会社、また生活の中でも人は絶えず周りと自分とを比べ競争し、打ち負かされ、思い悩み、心をすり減らしていると思います。私は以前、会社員として営業職をしていました。常に社内や他社との競争の中でもがいておりました。努力が報われず途中で投げやりになったり、思い通りにならず腹を立てたり、今日やるべき仕事を後回しにして怠けたり。そんな中、フッとこの言葉を思い出しました。
「自分に打ち勝つ事が最大の勝利である」。
仕事が上手くいかず、落ち込んでいた自分に安心感とやる気を与えてくれました。周りとの競争に勝った負けたではなく、自分に打ち勝つことが勝利なのです。自分に打ち勝つことが最大の勝利なのです。逃げ出したい、怠けたいと思う自分の心に打ち勝って、今やるべき事を熱心に行う。そうすれば結果がついてくる。無理をするとか、頑張るとかいうことではなく、今やるべきことを為す、ただそれだけ。そうして無理な競争や他者との比較をやめた途端に、心が非常に楽になりました。過去の自分と比較し、進歩することができればいいのです。いまだに世の中は競争社会ではありますが、勝利する相手を他に求めず、己の心に勝利することにスイッチを切り替えたならば、思い悩むことも争うことも他者を傷つけることも格段に減ることと思います。「私はあの人より優れている」とか「あの人と同等だ」とか「あの人より劣っている」と考える人はそれによって思い悩み、場合によっては言い争うことになります。もし自分が弱いのであればそれを認め、愚かであるならばそれを認め、その中で「自分に打ち勝つ」事が大切だと感じます。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 鶴田 悟裕 老師

2012年10月01日

静岡県袋井市積雲院住職 鈴木雅樹 老師 「生きているからこそ葉は落ちる」  


わたくしのお寺には、たくさんのモミジの木があります。冬には立派な枝ぶりを見せていたものが、春には、葉を一杯に茂らせます。新緑の鮮やかな物、オレンジ色のもの、始めから赤く色づいたもの、色々とあります。そして、初夏には小さな可愛らしい花を咲かせ、秋になると奇麗に紅葉します。春夏秋冬、私達の目を楽しませ、豊かにさせてくれます。
 しかし、昨年は、九月に上陸した台風の影響で、たくさんの木の枝が折れ、葉っぱが飛ばされてしまいました。
「今年は奇麗な紅葉は見られないかな・・・」
と少し残念に思っていたのですが、それでも、秋がやってくると残されたモミジの葉は、どれもが紅く色づき、いつも通りの美しい紅葉で、私達の目を楽しませてくれました。
紅葉が終わり、ほとんどの葉っぱが落ちていきましたが、本堂の南側にあるモミジの木の一部の葉っぱだけは落ちずに残ったままになっていました。よく見ると、その部分だけ枝が折れていました。そして、冬がやってきて、全ての葉が落ちた時、ついにその枯れ枝の葉っぱだけは残ってしまいました。
 「あっ!」
それまでは、「葉っぱが落ちる」ということは「枯れる」ということと同じだと思っていたのですが、しかし、そうではないのだ、という事に気づかされました。
 木の葉が落ちるということは、その木が生きているからなのです。生きているから、葉を落とし、来年の養分にするのです。生きていなければ,木の葉さえ落とすことができないのです。
 人間という幹には、地位、名誉、学歴、財産、プライド、建て前などなど、さまざまな葉が生じてきます。生きていく上で必要な時もあるでしょうが、それが重荷になることもあります。そんな時、時にはその葉を落してみてはどうでしょうか。
 葉を落とすことは枯れることではありません。生きているからこそ、その葉は落とすことができるのです。落とすことで、冬を迎え、「春」を迎える準備が出来ます。そして、落とした葉、それは、きっと自分の養分となり、自分を一回りも二回りも大きくする力となることでしょう。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 鈴木雅樹 老師

2012年09月17日

三重県 光明寺副住職 山口正倫師 いただきます


私たちはごはんを食べる時、「いただきます」と言います。「いただきます」と言うことについて少し考えてみようと思います。

「いただきます」と同じ意味の言葉に「頂戴します」という言葉があります。「頂」は頭のてっぺん、「戴」はのせると云う意味です。私達僧侶は、お袈裟をつける時、まずお袈裟を頭の上に載せます。これを頂戴すると言います。お釈迦様のお悟りと教えの象徴であるお袈裟に対する最高の敬意の表現です。
 としますと、ごはんを食べる時の「いただきます」も同じ様に、本来は頭の上に捧げ持って敬意を現すものといえます。

 では、何に敬意をはらうのでしょうか。私達の食事とは、植物、お肉、お魚など生き物の命をとり入れることです。それだけではありません。植物ならそれを栽培した人、お肉ならその動物を飼育した人、お魚ならば海や河へ取りに行った人、またその他に、それら食料を加工してくれた人々、運んでくれた人々、調理してくれた人々など。まだまだその他に、食料を育んでくれた大地、気候、天候など、ありとあらゆることやものが集まってきているものなのです。まるで宇宙全体が私達の為に働いてくれているようです。言いかえれば、宇宙全体に生かされていると云えるのではないでしょうか。

 私たちの先人はその事がわかっていたのだと考えられます。「いただきます」は感謝のことばであり、宇宙全体によって生かされている「私」を自覚することばなのです。

どうぞお食事の前には手を合わせて「いただきます」と仰って下さい。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 山口正倫 老師

2012年08月27日

愛知県一宮市 成福寺住職 久馬慧忠 老師 「仏のものさし」


皆様よくご存知の「あいだみつを」さんのことばに「百円玉ポンとなげ入れて手を合わす、なんと願い事の多いことか」興味深いことばです。そう言われてみると、なるほどと思い当たることが誰しもあると思います。お宮さんにお参りしてもまずお賽銭をなげ入れ、拍手をして、頭を下げるとやはり、色々な願い事が頭に浮かぶものです。家内安全、交通安全、病気平癒、心願成就等々、考えてみれば次から次へと出てくるものです。ある人はこれは願い事としてではなく、「私はこのように誓約したします」という誓いのことばとして受け止めるのが良いのではないかとも申されますが、なるほどこれも一理ありうなずけます。
 もう一人仏教者として有名な「ヒロサチヤ」さんがおられます。東京の大学へ入る前までは、大阪のお祖母さんの家にあずけられていました。このお祖母さんは、とても律儀な信仰心の厚い方のようです。「ヒロサチヤ」さんの子どもの頃、朝晩必ずお仏壇にお参りするよう申し渡されました。そして、仏様に決して願い事をしてはいけません、ただ「ありがとうございますの一言だけ言いなさい」と教えられました。朝起きると顔を洗い、口をそそぎ仏壇にお参りして、線香を立て、鈴(リン)を一つ鳴らして「ありがとうございます」とお参りをして、初めて朝のご飯が頂けたそうです。夜はまた、寝る前に必ず仏壇にお参りをして、やはり「ありがとうございます」の一言だけ言ってやっと床へ入れたそうです。ところが、時々その言葉を忘れた頃に「今朝はどのようにお参りをしたのか」と突然尋ねられたそうです。そこで「ヒロサチヤ」さんはもうすっかり大事な言葉を忘れ、学校の成績のことで頭が一杯だったもので「はい、今朝は今日は学校で大事な試験があるので、何とか百点がとれますようにとお願いしました」というと、お祖母さんは「そんなことは教えていない。もう一度お参りしなおしなさい」と怒られたそうです。しかたなしにもう一度、仏壇の前へ座って合掌し、「ただ今の願い事は全部取り消します。ありがとうございます」と申されたので、ようやく朝食につけたそうです。
 これが後に仏教学者として有名になった大きな機縁になったのではないでしょうか。
 後日お参りを二つに分けて、一つは「請求書のお参り」、もう一つは「領収書のお参り」と述べられておられますが、実に明快で解りやすいことばです。常に頭にかけておきたいものです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 久馬慧忠 老師

2012年08月20日

静岡県静岡市 歓昌院副住職 前島慎司 師「同時というは不違なり」


 幼稚園や保育園で話を聞いたら、大人でありながら、子どもの立場になって世話をするのが理想なのだそうです。
同時ということの日常的な一例でしょう。
私が小学生の時のことです。山へ遊びに行きました。少し遠いところだったので、おやつにハンバーガーと一つ持って行きました。ちなみに一つ150円でした。当時、小学生の私にとっては、とても高価なおやつでした。山へ着いて間もなく、一人の大人の女性が私の所に向かってきました。そして、私のハンバーガーを見るなり、欲しいというのです。何も食べてなくて、半分でいいからと言うのです。私は半分ならと思い、ハンバーガーを渡すと女性は、すぐに全部食べてしまいました。さらにお礼をいう訳でもなく、山を下りて行ってしましました。

同時とは、他の人と自分が同じ立場に立つことです。他人を自分の身に引き当てて考えることです。また、自分と他人を同じ立場で考える慈悲の働きでもあります。
しかし、さらにいうなら、お釈迦様の教えの中で生きていく中で、自分にも他人にも特別なものを作らない、ということではないでしょうか。先ほどの山で合った女性と私の間には、その特別なものがありませんでした。だからこそ、ハンバーガーを渡すことが出来たのだと思います。もし、その女性を私が知っていて、嫌いな人であったり、お互いに対立関係でもあれば、ハンバーガーを渡すことは出来なかったでしょう。

仏教と共に生きていく中で、他人と共に生き、自分を偉ぶったりしない、また、他人を見下すことをしない姿勢、それこそ道元禅師様は、「自分にも他人にも不違なり」といわれているものです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 前島慎司 師