2013年05月26日

静岡県 円応寺住職 浜崎道昭老師 「光陰は矢よりも速やかなり」

早いもので平成25年も半ばが過ぎました。6月10日は時の記念日です。今日は時について、少しお話してみましょう。
時間というのはいつでも誰にでも一定の速度で進んでいくのですが、楽しい時は速く過ぎていくように感じますし、いやな時間はゆっくりと流れているように感じることがあります。また、年齢を重ねるにつれて「若いころに比べて一年の月日が早くなった」「学生のころは時の経つのがゆっくりだったが、最近は、一年たつのがあっという間のように感じる」という話をよく耳にします。客観的には、昔も今も時計は同じリズムで時を刻んでいるのですが、年々生活に変化が乏しくなっているせいか、私たちの感じる時の速さは年をとるごとに増していくようです。ある方が私に、人は一年間を自分の年齢の時速で走って過ごしているのだと言いました。つまり、5歳の子供の時にはゆっくり歩くくらいの速さで時の経過を感じ、40歳の人は町を走る自動車の速度で毎日を過ごし、80歳の方は高速道路を走行しているくらいの猛スピードでその1年を走って行くように感じるのだというのです。スピードが速くなれば、当然目にする景色の印象も変わります。道端の美しい花を見て感動することや、ちょっとした季節の変化に目をとめることも減り、次第に視野は狭くなり、ゆったりした心はせわしなくなり、疲れだけが増していくというわけです。
 よく「人は死を迎える瞬間に、その人の一生の出来事が走馬灯のように脳裏をよぎる」という話を聞きます。良い思い出もいやなことも、心地よいことも忘れたかったことも全てを思い出すのだというのです。
私たち曹洞宗の教えである「修証義」にも、「光陰は矢よりも速やかなり」「身命は露よりももろし」とありますように、私たちの一生はとても速く、はかなく過ぎ去ってしまうものなのでしょう。
だからこそ、年齢とともに次第に速くなっていく自らの時間を大切にし、親しい人たちとの思い出を多く作り、ひと時ひと時を充実させていきたいものだと思います。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 浜崎道昭 老師

2013年04月01日

愛知県田原市 潮音寺副住職 宮本道臣 師 「あたりまえの幸せ」

東日本大震災から二年が経ちました。しかしながらまだ被災地では、震災前の様な暮らしに戻れず苦労なさっている方がたくさんおられます。震災の影響を受けなかった人も、いつまたおこるか分からない不安から、お店などで電気・ガス・水道の代用品として、乾電池・ガスボンベ・ミネラルウォーターを買い求めた方も多かったのではないでしょうか?誰しも電気・ガス・水道が大切なのは震災前から分かりきっていた事だと思います。しかしいざ失ってみないと、その本当の大切さに気がつかないものなのかもしれません。
失って改めてその本当の大切さに気がつく物として『健康』があげられます。最近テレビや雑誌で健康に関する特集か組まれている事から、健康を気にしている方多いのではないでしょうか?しかしそんな方でも、日常生活をしている中で、手足が動く、目で物を見る事ができる、耳で音を聞く事ができる、そんな幸せを感じて生活をしている人がどれくらいいるでしょうか?健康な人にとってはあたりまえの事かもしれません。そのあたりまえの事があたりまえでなくなったとしたら・・・。
『家族』についてはどうでしょうか?普段あまり会話のない父親だったとしても、おせっかいばかりの母親だったとしても、当然いるのがあたりまえだった生活が、急にいない生活になったとしたら・・・。
唐の時代の禅僧に百丈禅師という人がいました。ある時、修行僧の一人が百丈禅師に「この上ないありがたい事、すばらしい事とはどんな事でしょうか?」とおたずねになり、百丈禅師は「独坐大雄峰」とお答えになりました。これは、「今私がここにこうして坐っている」という意味で、ありがたい事、すばらしい事というのは決して特別な事だけではない、というのです。
普段あたりまえだと思っている事にもたくさんの幸せがあり、その一つ一つに日々感謝をし、感じる事ができたのなら、自分の心はもっと豊かに(健康など)、人にはもっと優しく(家族など)、物にはもっと大切に(電気など)できるのです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 宮本道臣 師

2013年03月25日

愛知県春日井市 長安寺住職 山田清孝 老師 「息る(いきる)」

参禅会でお手伝いさせて頂いております。

まず最初に、坐禅は坐っている時だけではないということをお伝えしております。立っても坐っても、歩いても、いつでもどこでも、坐禅は出来ます。生活すべてにおいて坐禅のこころを取り入れて頂きたいのす。

足を組んで、身(からだ)を調えます。次に息を調えます。身を調えるのと、同じ位大切なことです。落ち着いておりませんと、息が荒くなったりします。激しく動いた後には、「息が切れる」とも申しますから、息を調えるということは、普段でも大切にしなければなりません。

息の長い、短いは自然に任せますが、次第にゆっくりとしてくると思います。最初に大きく吐き出します。腹式呼吸を致しますが、お腹を空っぽにするくらいのつもりで、1〜2回静かに、大きく「ふ〜っ」と吐き出すと良いですね。例外もあるかもしれませんが、スポーツでも芸事でも、何かしら取りかかります時に「ふ〜っ」とすると思います。心構えの様なことですが、きちんと坐禅作法にもあります。「空(カラ)」にしませんと新しいものが入ってまいりません。

ここで「息」と云う文字を見てみます。鼻と心(しん)からなる文字なのですが、これを「自分の、こころ」と見てみると、「息を調える」という事は、「自分のこころ」を調えることになります。私は「息をする。息する。息(いき)る」と読むようにしております。

何気なく意識もせずに「息」をしておりますが、そのことを忘れてはなりません。「忘れ」ては、こころが亡くなってしまうからです。といって、執着してはいけません。忘れる事なく、ごく自然にそこに自分の心を寄せる。是を『念』ずる、といいます。
そこに落ち着いたアナタの「今のこころ」がありますように。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 山田清孝 老師

2013年02月18日

岐阜県関市 広福寺副住職 紀藤昌元 師「さびしくとも それが人生」

「時は去る 人はゆく さびしくとも それが人生である
来年という年がくる 目をかがやかせ 両手をひろげて待とう」

祖父のノートの片隅に書いてあった言葉です。祖父は昨年11月、82歳でこの世を去りました。私たち孫をとても大事にしてくれた祖父でした。その祖父の部屋で、ふと見つけた1冊のノート。そのノートの1ページに、誰の言葉かは分かりませんが、今となっては懐かしい祖父の字でそう書かれていました。

時は去る 人はゆく さびしくとも それが人生である

時間はとどまることなく流れ、大切な人との別れが必ず訪れます。無常というその道理を分かっていたつもりでも、やはりそれは大変さびしく辛いことです。しかし、自分だけではない。他の誰もが、そして他でもない祖父自身もまた、そのような人生を歩んできたはずです。

来年という年がくる 目をかがやかせ 両手をひろげて待とう

戻らない時間を想い、いつまでも立ち止まってばかりいるのではなく、新しい未来に希望を抱き、日々を精いっぱい生きよう。祖父もまた、そのように強く人生を歩んできたのです。
別れの悲しみの中で出会ったノートの片隅、その懐かしいボールペンの青い字を通して、私は亡くなった祖父に出会い、勇気づけてもらいました。別れを正面から受け止め、前向きに生きていく力を、その言葉を通して祖父から分けてもらいました。

大切な人と別れるのは、さびしくて当たり前です。そして大切な誰かとも、いつか別れなければならない。それが人生なのです。だから、さびしがったっていい。ただ、さびしさに埋もれてしまうのではなく、明日に希望を持って、今日一日を精一杯つとめければならない。それがこの後も生きていくもののつとめなのでしょう。
さびしくとも、それが人生である。無常に生きる私たちは、その無常を受け止めて生きるよりほかありません。しかし、私たちにはその力がちゃんと備わっているのです。だから安心して、精一杯生きていきなさい。今の私には、祖父がそう教えてくれている気がしてなりません。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 紀藤昌元 師

2012年12月10日

三重県志摩市 前海庵住職 日山 賢吾老師「菩薩のこころ」

ある朝、お参りでお墓を訪れた時のことです。50代で亡くなられた男性の方の七日七日(亡くなられて49日あけまでの7日ごとのお参りの事)のお参りでした。
男性の奥様は旦那様の他に身寄りがなく、お一人でお墓のお参りを続けていらっしゃいました。

「あぁ、若くして大切な旦那様を亡くされ、どんなにか不安で心細く寂しいことだろう」
そう思った私は、少しでも奥様のお心を癒す助けになる事ができればと、他愛のないお話をし、精一杯お経をあげさせて頂きました。

 お経が終わりに近づいた時。一人のおばあさんが私たちの方へ近づいて来られました。お婆さんはご自分のお墓参りをされていて、丁度帰る途中のようでした。
おばあさんは私に会釈をされると、奥様の方へと近づいていき、心配そうに声をかけられました。

「ふみえちゃん、大変だったねぇ。大丈夫?」。
奥様はこの言葉を聞いて、ニコッと微笑んで答えられました。
「ありがとう、おばちゃん。おばちゃんこそ体大丈夫?」
おばあさんもにっこり微笑んで答えられました。
「うん、ありがとう。私も大丈夫よ」
そう言っておばあさんは、持っていた線香を旦那様の墓前に供えて、手を合わせ帰っていかれまた。

私はこの光景を目の当たりにし、何とも言えない暖かな優しい気持ちになりました。後日分かった事ですが、このおばあさんは、奥様のご近所さんで、おばあさんも数十年前に若くして、旦那様に先立たれていたのでした。ですから、お互いの辛さ、寂しさをよく分かっていたのでしょう。

この出来事は、一見、何の変哲もないよくある光景かもしれません。しかし、このお二人の純粋にお互いの事を思いやる慈愛のこころは、私の心を動かしました。そのお姿は、まるで菩薩様そのものした。
お釈迦様は様々な教えで、他人を思いやることの大切さを説かれています。このお二人のように人を思いやる心を、誰に対しても常に忘れないようにしたいものです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| Comment(0) | 日山 賢吾 老師