2012年08月27日

愛知県一宮市 成福寺住職 久馬慧忠 老師 「仏のものさし」


皆様よくご存知の「あいだみつを」さんのことばに「百円玉ポンとなげ入れて手を合わす、なんと願い事の多いことか」興味深いことばです。そう言われてみると、なるほどと思い当たることが誰しもあると思います。お宮さんにお参りしてもまずお賽銭をなげ入れ、拍手をして、頭を下げるとやはり、色々な願い事が頭に浮かぶものです。家内安全、交通安全、病気平癒、心願成就等々、考えてみれば次から次へと出てくるものです。ある人はこれは願い事としてではなく、「私はこのように誓約したします」という誓いのことばとして受け止めるのが良いのではないかとも申されますが、なるほどこれも一理ありうなずけます。
 もう一人仏教者として有名な「ヒロサチヤ」さんがおられます。東京の大学へ入る前までは、大阪のお祖母さんの家にあずけられていました。このお祖母さんは、とても律儀な信仰心の厚い方のようです。「ヒロサチヤ」さんの子どもの頃、朝晩必ずお仏壇にお参りするよう申し渡されました。そして、仏様に決して願い事をしてはいけません、ただ「ありがとうございますの一言だけ言いなさい」と教えられました。朝起きると顔を洗い、口をそそぎ仏壇にお参りして、線香を立て、鈴(リン)を一つ鳴らして「ありがとうございます」とお参りをして、初めて朝のご飯が頂けたそうです。夜はまた、寝る前に必ず仏壇にお参りをして、やはり「ありがとうございます」の一言だけ言ってやっと床へ入れたそうです。ところが、時々その言葉を忘れた頃に「今朝はどのようにお参りをしたのか」と突然尋ねられたそうです。そこで「ヒロサチヤ」さんはもうすっかり大事な言葉を忘れ、学校の成績のことで頭が一杯だったもので「はい、今朝は今日は学校で大事な試験があるので、何とか百点がとれますようにとお願いしました」というと、お祖母さんは「そんなことは教えていない。もう一度お参りしなおしなさい」と怒られたそうです。しかたなしにもう一度、仏壇の前へ座って合掌し、「ただ今の願い事は全部取り消します。ありがとうございます」と申されたので、ようやく朝食につけたそうです。
 これが後に仏教学者として有名になった大きな機縁になったのではないでしょうか。
 後日お参りを二つに分けて、一つは「請求書のお参り」、もう一つは「領収書のお参り」と述べられておられますが、実に明快で解りやすいことばです。常に頭にかけておきたいものです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 久馬慧忠 老師

2012年08月20日

静岡県静岡市 歓昌院副住職 前島慎司 師「同時というは不違なり」


 幼稚園や保育園で話を聞いたら、大人でありながら、子どもの立場になって世話をするのが理想なのだそうです。
同時ということの日常的な一例でしょう。
私が小学生の時のことです。山へ遊びに行きました。少し遠いところだったので、おやつにハンバーガーと一つ持って行きました。ちなみに一つ150円でした。当時、小学生の私にとっては、とても高価なおやつでした。山へ着いて間もなく、一人の大人の女性が私の所に向かってきました。そして、私のハンバーガーを見るなり、欲しいというのです。何も食べてなくて、半分でいいからと言うのです。私は半分ならと思い、ハンバーガーを渡すと女性は、すぐに全部食べてしまいました。さらにお礼をいう訳でもなく、山を下りて行ってしましました。

同時とは、他の人と自分が同じ立場に立つことです。他人を自分の身に引き当てて考えることです。また、自分と他人を同じ立場で考える慈悲の働きでもあります。
しかし、さらにいうなら、お釈迦様の教えの中で生きていく中で、自分にも他人にも特別なものを作らない、ということではないでしょうか。先ほどの山で合った女性と私の間には、その特別なものがありませんでした。だからこそ、ハンバーガーを渡すことが出来たのだと思います。もし、その女性を私が知っていて、嫌いな人であったり、お互いに対立関係でもあれば、ハンバーガーを渡すことは出来なかったでしょう。

仏教と共に生きていく中で、他人と共に生き、自分を偉ぶったりしない、また、他人を見下すことをしない姿勢、それこそ道元禅師様は、「自分にも他人にも不違なり」といわれているものです。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 前島慎司 師

2012年08月13日

静岡県藤枝市 大霊寺副住職 近藤章正 師「こころの癒し」


 昨今、通学児童や一般通行者に対する悲惨な交通死亡事故が後を絶えません。私の母親も、交通事故で、この世を去りました。一瞬にして無常の風に散ったのです。無常とは、いつまでも同じ状態を留めないことです。この世の中には、無常の風に散った命に悲しむ人々は限りなくいます。死を自分のことのように考える、それは、不慮の死に直面し、体験した者にしか、その苦しみはわからないのです。大切な方を失い、悲しみにくれる日々を経験した時、人はどのようにして生きていけばいいのでしょうか。
先日、テレビを見ていたところ、みのもんたさんが、奥さまのご葬儀の中で、「お別れしたくありません、ずっと一緒にいたいです」と告げられていました。同感でした。
お釈迦様は、愛する人と別れる苦しみを「愛別離苦」と説かれました。その苦しみを癒すためにお釈迦様は、『仏遺教経』の中で、「世は皆無常なり。会うものは必ず離るることあり。憂脳を懐くことなかれ、世相是のごとし。」と説かれたのです。世の中は無常である、出会ったものとはいつか別れなければならない運命、だから憂い悲しみ、悩んでばかりいてはいけない、世の中とはこのようなものだ、と説かれています。無常の風は、いずれ私たちにも必ず、平等に吹いてきます。それがいつ、どこで吹くか、誰にもわかりません。
「亡き故人のためにできることは何か。」それは、亡き故人が喜ぶこと、善き行いをすればいいのです。たとえば、困っている人を助ける、お互いにどんな気持ちになることか。心が癒されるはずです。それが純粋無垢な幼き子どもの行いなら尚更です。おもわず微笑んでしまうでしょう。この善き行いを曹洞宗大本山永平寺をお開きになられた道元禅師さまは、御自身がお書きになられた書物『正法眼蔵』の中で「利行」と申されました。自分以外の生きとし生けるもののために見返りを求めない善き行いを積み重ねていくことです。その功徳を亡き故人にまごころをこめてお供えする。年回法要も、「善き行い」であり、「利行」そのものなのです。
今ここに我が命があるからこそ、生きてゆける。命の尊さ、有り難さを今一度皆様にも噛みしめていただきたいのです。目が覚めた時、布団に入る時、いつでも構いません。ご仏壇に、遺影に、しっかりと手を合わせて、ほんの少しだけ眼を閉じてみてください。「いつまでも忘れない」、「利行」のこころが亡き故人のこころを癒すのです。   
 「南無釈迦牟尼仏」
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 近藤章正 師

2012年08月06日

静岡県藤枝市 清林寺副住職 武藤啓央 師「奇跡の私にありがとう」


 先日、何気なくインターネットのあるホームページを検索していましたら、某有名大学名誉教授という方が人間一人がこの世に生まれる確率について次のような引用をされていました。
「一億円の宝くじが百万回連続で当たる確率で人間の細胞一個が生まれます。人間一人当たりの細胞が約六十兆個ですので、人間一人が生まれる確率は一億円の宝くじが百万回連続で当たる確率×六十兆ということになります。」
このように某名誉教授は言われますが、はたして全くピンときません。想像すらできません。実は自分も何回か淡い期待を胸に宝くじを買ったことがありますが、恐らく結果は皆さんと同じだったと思います。とにかくここで私が言いたいのはこの引用をみるだけでも、自分というちっぽけな人間が途方もなく桁違いな、そして想像を絶する確率で、この世に人としての生を受けたということです。ですから皆さん、もはやハズレくじの前で肩を落とす必要などありません。貴方が今呼吸をしているということは、実は宝くじ一億円があたる、なんてことよりもずっとずっとありがたくそして偉大なことなのです。
生誕間もないお釈迦さまが発せられた「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、これは天にも地にも私という存在は唯一つしかない。であるから尊いのだ、自他共に敬い大切にしなさいということですが、さらにこの言葉の中にはもう一歩踏み込んだ尊い意味があると思います。それは宇宙万物の中に人として生かされている大きな目的、人として存在しているからこそ与えられた唯ひとつの使命、それは何かというと「感謝のつとめ」言い換えれば「ありがとうのつとめ」でしょう。
この広い宇宙の中で、そして地球上で、命あるもの全てが、それぞれにその寿命と存在意義をあたえられ、ひたすらその使命を果たすために生きているのです。四苦八苦の苦しみのこの世の中ですが、せっかく人として生を受けたのであれば、常に「ありがとう」の気持ちでお互い支え合いながら精一杯、生きて行きましょう。
posted by 曹洞宗東海管区教化センター at 00:00| 武藤啓央 師